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続きをお願いします - 北海道人

2011/07/05 (Tue) 16:42:14

北海道庁地域政策部に勤務する者です。
開拓時代の苦労を臨場感溢れる筆致で描かれていて
ついつい、引き込まれて読んでしまいました。
先人の苦労を知れば、私の今の苦しみは知れたものです。
先人の苦労が報われますように、自分の仕事に励みたいと思います。
この先も続きを書かれるのでしょうね!
今後も拝読させていただいて、私の仕事の励みとさせていただきます。
先ずは、御礼まで・・・

ここまで辿り着きました。 - 取引先です

2011/07/01 (Fri) 09:21:30

シーリージャパンを検索したらここまで辿り着きました。
現社長のルーツは素晴らしい家系だったのですね!
創業者のことは存じ上げませんが、現社長は創業者の孫に当たるのでしょうか?
社員の使い方や取引先に対する気配りは祖先からの血を引いているのでしょうか・・・
大きな組織を動かす要諦を生まれながらに備えている逸材ですね!
会社の株式公開も間近に控えて、将来はベッド業界の雄になることは公の認めるところです。
創業者を超える事業拡大に我々もお手伝い出来ますことを誇りに思っております。

新社長に期待! - 元社員 URL

2011/07/04 (Mon) 11:50:01

ベッド会社のOBとして、時々ホームページを拝見しています。
監査役にM&Aや企業買収のプロ、角田大憲氏を迎え入れて、愈々、進撃開始ですね!
東京大田区と広島のベッドメーカーがシーリーの傘下に入りたいと言ううわさが広まっていますので、一気にトップメーカーに躍り出るチャンスですね!
その次は、アメリカのシーリー本社も買収候補ですね!
\(⌒∇⌒)/

源二郎の経営哲学 - 四女 圭子

2011/06/29 (Wed) 17:51:05

筆者の松村様は、よくぞ、ここまで食い込んで父と母の経営に対する思いをお書きくださったと脱帽しております。
確か西宮の夙川の家にお出でになられたことがあった方ではないかと記憶しております。しかも五稜郭の家の隣家の広岡家とも懇意の方とは驚きました。向こう三軒両隣の方々は、当時、青函連絡船の船長さんたちと機関長さんの家庭でした。洞爺丸、大雪丸、今思っても素敵な海の男たちの船長さんのご家庭の子女たちでした。
右隣の竹内くにさんはもと函館市長夫人というお方です。戦時中に製菓会社に勤務されてたお嬢様がいらして、回覧板を持ってお隣に行くのが楽しみでした。コンペイ糖を一握り、手のひらにくださったからです。左隣の広岡家のお父上は洞爺丸遭難で、亡くなられた機関長さんでした。ご子息は4人いらして全員優秀でした。ご長男は函館中学から小樽商大に進まれ、お父上のご逝去で母方のご実家の長野に移転されてしまい、当時とても寂しく思いました。広岡さんの典男さんというかたと懇意でいらっしゃいましたか?
しかし、松村様は何故、終戦という内容のところでこの小説の筆を折られたのでしょうか?何故、途切れてしまったのでしょうか、それともまだこれからお書き下さるおつもりなのでしょうかをお聞きしたいと素朴な疑問を持ち、お伺いします。10人の子供を育てた私の両親ですが、この西村家は母とよが亡くなって精神的支柱を失ったのです。これが西村家をまとならない家族にしてしまった悲劇であったし、まったくの悲劇と思っています。既に現在、上の兄弟姉妹が少しずつ他界するにつれ、真実を書き残したい気持ちですが、ただ一介の会社を興した創業者の物語とはいえ、栄光の蔭には色々な悲喜劇があったのは当然ですし、栄光を手にした父にも襲いかかる悪魔の手は避けられない悲劇のようなもので、それらすべてを明かす意味もないし、必要のないことです。ただ多少皮肉を込めてですが、継承者がどれくらい責務をまっとうできるかが見ものです。一族は父源二郎から質実剛健を教えられたものですが、日本が今このように繁栄と衰退の狭間におびえる時代に入りましたから、困難が今まで以上に続くことでしょう。どうぞ大きな責務をまっとうして行って、継いだ会社の繁栄と発展を続けて欲しいと、心から祈るものです。
子供心に聞いた父の言葉ですが、いつも聞かされました。会社経営には意味がなければ、商売というものは意味がないというものでした。ただ売り買いで儲けを追求するのはナンセンスだと、当時からはっきり私などに聞かせてました。子供心にミシンを売るというのは、つまり、国民の文化生活の向上に貢献すると言う意味なのだナと思ったりして密かに納得したものでした。
その内、サンタマリア号を書きます。
姉の洋子は次女で、命日は正確にはこの4月9日でした。
お詫びして訂正いたします。

昭和35年は還暦の年 - 四女 圭子

2011/06/21 (Tue) 15:08:04

かなり、そそかっしい私で、60歳は父の還暦でした。
まだまだ今でしたら、若い年代に入ります。父が生存してれば、現在111歳という年齢になりますから、11年前に生誕100年記念をやって然るべきでしたと思います。
まだまだ披露してないエピソードがありますが、その内、父 「源二郎とサンタマリア号」と題して書きたいと思ってることがあります。 先祖は元々ユダヤから四国の美馬郡に渡来したと謂われる西村一族ですから。

事業一筋の人生 - 四女 圭子

2011/06/21 (Tue) 12:06:57

当時の懐かしい写真を添付くださり有難うございます。
昭和35年は1960年ですから、父の源二郎は1900年生まれで、ちょうど5月で60歳の古希のことでした。
それから他界する83歳になるまでひたすら経営の道を究め、東京から関西支社の拡大のために西宮の夙川に居を移したりしました。
私が大学を卒業したのが35年の3月ですが、まもなく私達夫婦はロサンゼルス駐在員として2年半ほど派遣されてました。それから日本に戻り西宮に一緒に住んだことがありました。父は更にそれからベッドの工場を愛知県の豊橋に何億も投資して躍り出ました。それが今のシーリージャパンの土台になったと思います。ただの販売業では後世に何も残せないと考えてのことだったと思います。事業一筋の人生でしたが、人間としての幸せって何かなと思うとき、創業黎明期が人間として一番の幸福を実感する時だったのではないかと思うのですが・・・
数々の販売員の方たちとの出会いや、ちょうど昭和35年ごろの台頭期が人生で一番楽しかったころのように思えます。
段々健康を害しあんなに明るかった人が、老人性のうつ状態を
見せるようになって悲しく思いました。

偉大な人でした - 日販元社員です

2011/05/10 (Tue) 23:18:36

西村源二郎社長は偉大でした。

北海道から集団就職で東京へ出てきた100人以上の社員の親元へ手紙を書いて近況を送ってくれたり、当時、見習社員の僕に夏休みで帰省するときには上野駅まで見送りに来てくれて、手土産を持たせてくれました。
親でもできないこの心配りに、帰省列車の中で涙が溢れて・・・
この人について行こうと決心を固めました。

Re: 偉大な人でした - 四女 圭子

2011/06/19 (Sun) 11:47:50

父、源二郎は確かにとても律儀な人間でした。
人様に礼状を書いたりするのも決して厭わず、私たちもそれを学びました。 三女の板垣(日販の専務でした)の妻、洋子は母とよ亡き後、西村家の母親の役目をした人間ですが、
この3月末にC型肝炎から癌に罹り79歳で他界しました。

このお手紙を書いてくださった元社員さんはもしかしてKの頭文字の方でしょうか。生前、その方から父は有難い礼状のお手紙を頂き、私たちにも読んで聴かせてくれました。
今もよく覚えてます。確か私たちと同世代の方でしたので。
父のことを今も有難く思うのは私だけではないのだとうれしく思って書きました。

Re: 偉大な人でした - 日販元社員です

2011/06/19 (Sun) 12:33:38

Kではありませんが、多くの青年社員は社長の気配りには感動していました。
社長は幹部社員の実家近くに出張した序でに、幹部社員の実家のお墓参りもするというお話も社内で耳にしました。
その幹部社員は感動のあまり社内中に吹聴して歩いたようです。
添付の写真のどこかに私がひそんでいます。

菩提寺 - 美馬の西村です URL

2011/02/17 (Thu) 23:22:44

美馬の西村は70世帯ほど住んでいて15代目の当主は
南海堂の西村与一さんです。
300年ほど前に香川県白鳥から移住して来ました。
菩提寺は真宗興正派の常念寺ですので、こちらで
系図を調べればご先祖様を尋ねることができるかもしれません。
http;//www.ai-zen.info/jin/36/36-68378.html

Re: 菩提寺 四女 圭子

2011/02/18 (Fri) 17:07:47

率直にお伺いします。 南海堂というのは何でしょうか?
記述には、重清村には西村家の墓があり、15代目の与一が墓守とあります・・・与一さんは源蔵の父ですよね。
西村は300年前に香川の白鳥から移住とありますが、四国全体が2千年前にユダヤ人が入った土地と謂われていますのをご存知でしょうか?
長宗我部一族もユダヤ人と謂われ、上士と下士に区別され長く下士とされたのがユダヤ人のセム族と謂われています、徳川家康からもいじめられました。美馬郡はもっともユダヤ人が多く、金銭感覚が発達していたようです。それで源二郎さんにビジネスマンとしての才覚があったのだという気もしますが、ドラマチックな木下エノという母の存在は、出自もはっきり分かっていませんが、何かむしろビジネスの感覚を身につけていた女性だったように思えるのです。というのは当時、彼女が20代で出会った男、食うや食わずの源蔵がエノに惹かれたのは、彼女の若さだけであったのだろうか、むしろある種の経済力に惹かれたのだったのではないかと想像するのです。あくまでも想像です。
話は替わって、私は5~6歳ごろ、父の源二郎さんに滝川の新十津川村に連れて行かれたことがありました。函館から汽車の旅で、滝川からはとても辺鄙な山奥へと馬車に揺られ、しっかりつかまってないと振り落とされるかと思うほどの怖い往復でした。更にもっと怖いのが便所でした。とうとう滞在の間、3日間ほどはあの深いトイレにまたがることができませず、我慢したため、顔面蒼白になって函館に戻って来ました。その時、利市さんだと思う人に会っています。今もそのお顔の感じは記憶にあります。そしてそれ以来、10年くらいは利市さんの子供たちとも文通が続きました。
私は幼少のころ、外人の子かとよく言われ、色白で髪の毛はくるくるし、目はくりくりし、長じては目が青いとか言われて育ちました。今もってこの年齢でスタイルが外人かと言われるからですが、ユダヤ人の血が入ってるからかと思うときがあるのです。仕事一筋で余り家庭的とは思えない父の源二郎が、私が学校に入るころまで、毎朝、父の床の中で髭の頬を擦るようにされるのが痛くて嫌だった思い出があります。外人の子のような愛らしさをとても父は可愛がってくれました。子供の中で、末弟の允之も外人の子のようでした。
それから、私が結婚するまでの数回、父源二郎と二人の旅がありました。母とよが亡くなって、再婚するまでの僅かな間のことですが。 沢山いる子供の中で私だけが体験できた旅だったと思っています。

Re: 菩提寺 - 美馬の西村です

2011/02/19 (Sat) 07:12:38

日本人はどこから来たのか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA


上記のミトコンドリアDNA解析によれば、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、
この系統はアイヌ人・本土日本人・沖縄人の日本3集団に固有に見られるタイプで、朝鮮半島や中国人にはほとんど見られない事も判明した。
と書かれていますので、意外と日本人はユダヤ人の血が混じっているのかもしれませんね!

西村与一さんは現役で南海堂商店という菓子食品スーパーを営んでいます。
高齢ですから、息子さんに譲ったかもしれません。

労働争議 - 黄色いリボン

2011/02/16 (Wed) 21:24:37

昭和40年初頭は労働争議がブームで、日販本社(日本ミシン販売)も赤旗を掲げた社員に占拠された。
僕も赤旗を掲げた一人だが、何が原因であんなことになったのかいまだに判然としない。
当時の労働組合の委員長はとうの昔に亡くなったと風の頼りに聞いた。
そう・・・
今のエジプトやイランの騒擾に便乗した時代のうねりだったのでしょうか?

当時の昌之社長は宴会で必ずジョン・ウェインの「黄色いリボン」を歌ったのが懐かしい。
お元気なのでしょうか?

Re: 労働争議 四女 圭子

2011/02/17 (Thu) 10:17:27

残念ながら、既に10年以上前に昌之が、数年後の2004年に成之が他界しております。今は黄色いリボンも懐かしい思い出になりました。時代はどんどん変わります。
源二郎幼少の当時、丁稚奉公同然で遠い縁戚の河村家に入って、源二郎はビジネスの世界に入ることになった運命ですが、実母の木下エノと没交渉という分けでもなく、生き別れという分けでもなかったと思います。死に際には大学に行っていた東京から駆けつけたのですから。
木下エノについての影像は何一つ浮かびませんので、想像豊かに、興味本位に語られる傾向があるのでしょう。しかし、私が想像するに、当時としては稼ぎのある自立心の強い女性だったと思います。再婚は当時は何も不思議はなかったこと。
それが、金満家?とか悪人の結婚相手とか? 何故そのような想像が起きるかが不思議です。当時の庶民は生活苦がほとんどではなかったのではないでしょうか。1929年の世界恐慌が起きる直前の世の中ですから。

西条れいさんという女性のこと 鈴木圭子

2011/02/15 (Tue) 11:20:35

私は自分を五女と書きましたが、正しくは四女です。
間違えましたので、お詫びして訂正いたします。
長女は恭子、次女は洋子、三女は道子(3歳で死亡)四女は圭子(私)五女は優子です。現在のところ、上の二人は病床にいますが、全員健在です。
母は沢山の子供を育てるのに大変苦労をした分けですが、私は兄弟の真ん中に生まれて育ったので、他の兄弟より裕福に育ったと思います。中学のころから家業も段々隆盛を極めて、函館時代は日本ミシン女学院の生徒の中の数人を我が家に宿泊させ女学院に通わせて、昼間はお手伝いさんにしていました。同じように東京でも昼間はお手伝いさん、夜は夜間高校に入れて上げてました。中で優秀であれば、事務職の社員にしてあげてました。その中に西条れいという福島からでてきた私と同じ年回りの高校生を晩年に至るまで父は語り草にして、彼女の清廉さと勤勉さを褒め称えて、光源の里の分譲も与えられたのです。彼女はカトリックの信者にまでなられ夜学生をしながら働きました。20歳を過ぎてまじめなお医者様とご結婚されたとお聞きしてます。晩年に至るまで、父は西条れいさんを忘れませんでした。彼女のその立ち振る舞いがいつも忠実で、でしゃばらず、清らかさを湛えていたからだと思います。私たちにとっても忘れられない女性です。
以上

木下エノは再婚した西川家の墓に眠る 鈴木圭子

2011/02/14 (Mon) 14:54:54

私は源二郎の5女として生まれた圭子と申します。
現在73歳でハワイに在住、鈴木眞(ベンジャミン)が夫ですが、23歳から3年半、父の経営の貿易会社、太洋物産のロサンゼルスに駐在員として鈴木と派遣されてました。あまり役にも立たない娘でしたが、私は慶応大学卒業。子供のころ、函館山の墓参りの折に父から自分の母親の墓は、妻とよの眠る西村家の墓から数メートル離れた場所に存在していると、父が教えてくれました。場所を覚えております。これが母の墓だと言いました。母は西川家に再婚して、遺骨はここにあると聞きました。鈴木ベンジャミンもサイトで検索できます。

Re: 木下エノは再婚した西川家の墓に眠る - 通りすがりの者です

2011/02/14 (Mon) 20:00:30

斜め読みに読んだので、素朴な疑問ですが・・・
木下エノが西村源二郎を捨てたも同然に没交渉になった経緯に深く切り込んで物語が展開するのかと思いましたが・・・
フラストレーションが溜まりました。

再婚の相手は親族に紹介できないほどの悪人で、日陰の中で余生を送ったのか、源蔵とは比較できないほどの金満家に嫁いだために顰蹙を買うような生活を覆い隠したかったのか・・・
興味が尽きませんね!


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